徳川吉宗:名古屋の人が8代目将軍になるはずだった、声を掛けられるとまず形式的に断るのが慣習のところ、吉宗は断らずお受けして将軍になった
(※公式では、御三家筆頭の尾張家六代藩主・徳川継友<1692〜1731>が最も将軍家に近い血筋だったが、大奥御台所の天英院が6代目将軍・家宣の意思として吉宗を指名した、などとされる)
死後、墓に鎖でがんじがらめ、参るな
秀吉:家康が五輪塔をバラバラに叩き潰す
家康:本能寺の前に死んでいた、影武者が優秀で出世した
秀吉:父が織田家の家来、戦で足を槍で突かれて死んだ
明智光秀:先祖は土岐一族、美濃、寺の前に岐阜県下最大の円墳
秀吉は忍者の頭、石川五右衛門、甲賀、甲賀、らっぱ、すっぱ
戦国時代に唯一影武者なしで生き残ったのが明智光秀、天海大僧正になった、家康に秀吉も秀頼も偽物と伝えた
秀吉の財宝:佐渡島の金山、年間600万両
影武者のほうが優秀だった
大坂冬の陣・夏の陣:天海はずっと家康の横にいた、真田幸村に銃で撃たれて家康が殺された、真田幸村は逃げた、天海は死んだ家康を医者に診せに行くと連れていき、堺まで籠で走った、三河で家康の双子兄弟を連れて行った、家康は着ぐるみがれて寺に埋められた
その後の家康は全く喋らず、天海が指揮した、家康の名を借りて明智光秀が天下を取った
明智光秀の子を坂本家が引き取った、天王山の戦いで坂本家も負けた、その子を長宗我部に預けた、山内に取られる、その子を坂本として育てた、家紋を裏桔梗から表桔梗にした
(※公式では、関ヶ原の戦いで土佐を支配していた長宗我部は西軍について敗北し滅亡、東軍についた山内氏に土佐20万石が与えられた)
明智光秀の家臣(※斎藤利三)の娘・お福がのちの春日局、7代目まではニセ家康の子
本能寺で襲われた織田信長が既に偽物、踊って切腹、首を切る前に背負って船に乗せて淀川から大阪湾へ、船に乗って種子島へ、島津が面倒をみた、10ヶ月生きた、顔が似ていた
信長とお市はいとこ、茶々は信長の子
秀吉も男色、石田三成
石田三成と茶々の子が秀頼
(※大野修理の子と言っておられる回もあります)
濃姫:本能寺で死んだ
本物の信長の霊体がやってきた:今の天下が間違っている、今の日本を憂いているから彷徨っている、「救世主になるか」「嫌や」